2012.01.08(日)早くも七草が過ぎ、お正月気分も抜けてくる頃。
松の内の最後の昨日夕方5時20分、母が静かに眠るようにこの世から旅立っていった。そのほんの数分前、病院の窓から大山方面に沈んで行ったこの日の太陽の残照。山々の手前の灯りが上りかけた母の魂のように輝いた。
母の血圧が下がり始め、呼吸も更に荒くなり始めた頃、、4人部屋からナースステーション隣の個室に移された。この頃には、私達夫婦、アメリカの姪夫婦以外の弟家族全員と娘が母の周りに集まっていた。
新年を迎え、日増しに体力が衰えはじめた母。娘達、息子達、私達夫婦が毎日のように見舞いに出かけた。娘が行った時が一番よくしゃべっているようで、話がかみ合ったなどと報告が来る。
昨年暮れ12月6日に入院してから一月が経った。「長くて一月、早ければ年内の可能性も」とドクターに告げられたのが20日、更に24日には膵臓に癌が見つかり、重症である旨も告げられた。イブの日に弟達に連絡を取り、イブからクリスマスにかけて、母の見舞いが相次いだ。暮から年が明け、自分の家族が主に交代で母を見舞う中、新年の3日には弟が来て、その頃から母の意識は薄れがちとなった。毎晩、携帯の電源も落とさずに枕もとに置き眠った。いつ病院から連絡があってもいいように態勢を整え始めた。
母が神奈川に来てから撮りためた写真を選び出し300枚近くネットでオーダーし、更に小ぶりのアルバムを用意し、みんなに見せる分、一緒に写した家族達それぞれに渡せるようにと合わせて10冊程のアルバムを作り上げた。葬儀の日に母の思い出を一緒に持ち帰ってもらうために。そんなさなかの昨日だった。朝一番に見舞った娘からの連絡は、「おばあちゃん、今日は酸素マスクをして、血圧も低い」、すぐに夫と二人で病院へ。
酸素マスクをした母は、その前日もそうだったように、目をあけることも笑うこともなく、荒い息をしたまま横たわっていた。昼食もまだの娘と夫が、昼食を兼ねて、又今後への必要な買い物に出かけた。4・5時間の間一人で母の側で、小さな声でそっと語りかけた。「お母さん、ありがとう。みんな幸せに暮らしているよ。みんなお母さんのお陰。もうじきみんながお母さんに会いにくるよ」と。尽きない感謝の念は母に伝わっただろうか。
人が好きで、小さな子供が大好きだった母の最期は、二人の可愛いひ孫も含めた母の子供達家族に見守られる中、閉じた両の目から一筋ずつの涙を流して逝った。松の明ける日の土曜日を母が選んだのか、そしてみんなの時間の付きやすい、夕方に旅立ったのだった。あっぱれとしか言いようの無い母の旅立ちに、何故かおお泣きすることもなく、そのさりげなさに全員が悲しむというより、母の、後に憂いを残さないその旅立ちに不思議な明るさが残ったのだった。
何よりも、末期に近い癌が見つかったのに、痛みを訴えることもなく、大きく苦しむ事もなかった。唯唯最後に意識が遠のき荒い呼吸をしている母が少しでも早く安らかに眠れればとみんなが思い出した頃に、すっと逝った母の潔さは、家族全員の心にほっとするような安堵感を残してくれた。病院地下の霊安室に安置された遺体となった母は、病院の方できれいに清めてくださり、新しい浴衣を身にまとい、お化粧のほどこされた顔が生きて眠っている時と同じような表情で安らかだった。母の介護を始めて、何度も言ってくれた言葉「あたしは幸せよ」施設に入ってからもすぐに馴染み、終の棲家としての日々を「あたしは幸せよ」と何度となく言ってくれた母。家族との最後の別れの時もきっと幸せな気持ちで旅立っていったと思いたい。
数え88年の人生のうち70年以上商売をしながら働き続けた気丈な母は、一度として娘に愚痴を言うこともなく、子供達を男親のような大きな愛情で包み、育てた。
一夜明けた今日は、午前中から自宅で葬儀社との打ち合わせ。斎場の都合と家族全員の希望で、15日日曜日の一日葬とし、喪主は長男である弟が、そして母が最後に幸せな日々を過ごせた神奈川の地で、家族だけで母を見送ることに決まった。弟が高齢になったその他の親戚達に伝えた連絡からこちらにも連絡が入ったり、葬儀社との更なる打ち合わせ、連休が明ければ病院への支払いや、お世話になった施設の事務手続きなど、この後も片付けなくてはならない用事も多い。、しばらくばたばたとしそうな日々。
今日は母が最後を過ごした病院近くに買いものに行き、病院の周りを歩いた。駐車場側からの入り口から院内に入りエレベーターに乗る。4階のあの部屋に行けば母が寝ているような、先に書いた事実など何も無かったように眠っているのではないかと、夢のような気持ちに襲われる。又、我が家の裏手の歩いて5分程の施設のあの部屋には、母がニコニコしながら車イスに座っているのではないかと、遊びに行ってしまいそうな、そんな気持ちのままの自分がいる。
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